水都東京を創る会のX&Instagram&水都ブログ担当の大澤です。
2026年1月24日(土)に「第5期リバーガイド育成講座 第2回講座」を行いましたが、それに続いて2月14日(土)に第3回講座が開催されました。
第2回講座でガイド原稿を作る上での現地踏査の重要性について取り上げましたが、今回はその現地踏査の実践編、講師と講習生が現地を歩いてガイドする場所に何があるか確かめてみよう!という試みです。
前回ブログでも記載した通り、第4回講座では体験乗船が行われます。これは「日本橋川・神田川・隅田川ぐるっと舟遊クルーズ」を講習生13人で分担してガイドを行い、船上のスピード感等を体験する趣旨で行われます(体験乗船はガイド講習生およびスタッフのみの乗船となります)。
現地踏査対象は「日本橋川・神田川・隅田川ぐるっと舟遊クルーズ」のコースに沿って行われますが、現地踏査前に下見に行ったスタッフが「これを1日で全部歩きとおすのは難しい」と判断、前回講座で抽選の番号、①~⑦の講習生が前半コース、⑧~⑬の講習生が後半コースを歩くことになりました。どちらも日本橋船着場に集合し、前半コースは日本橋川を北上して新三崎橋で神田川に合流、東に向かって万世橋へ向かうルート、後半コースは日本橋川を南下して豊海橋で隅田川に合流、北に向かって柳橋で神田川に合流、西に向かって万世橋へ向かうルートとなりました。
私は前半コースを歩きましたが、とても面白かったです。後半コースを歩いた講習生にもあとで話を聞いたところこちらも面白かったようで、いつか歩いてみたいなと思いました。
日本橋
13時、日本橋船着場に講習生とスタッフが集合、ガイドをする上で日本橋は必ず取り上げることからまず日本橋の紹介から入りました。


江戸幕府を開いた徳川家康は城下町整備のため湿地帯だったこの辺り一帯の整地に乗り出し、慶長8年(1603年)、江戸城下を流れる平川を延長してこの地に橋をかけ、翌年一里塚を設置して諸街道の起点としました。その後橋の名前は「日本橋」、その下を流れる川を「日本橋川」とよぶようになりました。


大正8年(1919年)に道路法が制定され、道路の起点・終点の標識として各市町村に道路元標を1つ設置することが定められました。
橋の北詰め西側にはかつて日本橋の中央にあった東京市道路元標が移され、その脇に日本国道路元標があります。ただしこの日本国道路元標は複製で、本物は中央通りの真ん中にあります。

美しい日本橋ですが、その下に焼けただれた跡があります。これは関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)が発生したときに日本橋の下で舟が燃えた跡となっています。陸からも目を凝らせば見えますが、クルーズで日本橋の下をくぐるとかなりわかりやすく見えます。
一石橋
ここで後半コースは日本橋川を南下して江戸橋方面に向かいます。
前半コースは日本橋川を北上、次の橋は西河岸橋です。

西河岸橋は日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が、西河岸町という町名であったことから名づけられました。
初代の橋(明治24年(1891年)架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという当時最新式の鉄橋だったものの、関東大震災により被災したため大正14年(1925年)に現在の橋に架け替えられました。
続いて、一石橋へ。一石橋は現在工事中で陸路で近寄ることができなかったため、令和4年(2022年)に私が撮影した画像を使用させていただきます。

一石橋は金座の頭人の後藤家と、呉服所の後藤家の両方の家を結んだので後藤(五斗)がふたつで、五斗+五斗=一石 から、一石橋と呼ばれるようになったと伝わります。
一石橋の南詰に一石橋迷子しらせ石標があります。

一石橋迷子しらせ石標の表には「まよひ子のしるべ」とあり、右横に「しらする方」、左横には「たづぬる方」と彫られており、裏側には安政4年(1857年)3月銘で西河岸町と記されています。
これは左横のくぼみに迷い子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを読んで知った人は右横のくぼみに紙をはって尋ね人にそれを知らせていたようです。スマホのない時代の知恵ですね。
ちなみに一石橋迷子しらせ石標の「まよひ子のしるべ」の下に「不」のようなマークが彫られていますが、これは明治期に設置された水準点「几号水準点」といいます。これは地理局雑報 第拾四號の東京塩竃測量時に刻まれた几号水準点の一覧に「一石橋際迷子知ルヘ石 二、九二二七メートル」と記載されています。(地上から少し離れた位置に刻まれているのでその差はあるかもしれませんが)この基準点の標高は2.9227m、現在の標高は4.33mで1.4mほどの差があります。差が生じる理由は測量技術の問題か、関東大震災等で起きた地殻変動の影響かは不明です。

常盤橋
一石橋から歩いていくと、渋沢栄一像があります。

渋沢栄一とは日本の実業家で、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)や東京証券取引所など多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった人物で、現在の1万円札の肖像になっています。
渋沢栄一像の隣に常盤橋門があります。

常盤橋門は江戸時代、大手門曲輪の日光・奥州道中口の要衝で、常盤橋門は大手門に対応する追手口として重視されていたため、敵の侵入を防ぐコの字型の枡形の石垣が残っています。
常盤橋門の近くには常盤橋があります。

常盤橋は明治10年(1877年)に架け替えられた東京都内最古の洋式石造アーチ橋で、常盤橋に使われている石は江戸城小石川門の石垣の再利用であることが判明しています(一部除く)。

常盤橋からは日本銀行本店本館が見えます。

日本銀行本店本館は総工費112万円をかけて、明治29年(1896年)に完成しましたが内部には当時としては珍しい水洗トイレやエレベーターが設置されました。
新常盤橋は日本橋川に架かり、常盤橋公園の北側を中央区側に抜ける江戸通りの橋で、現在の橋は昭和63年(1988年)に架橋されています。

竜閑さくら橋に登ります。

竜閑さくら橋は平成30年(2018年)に開通したばかりの橋で、大手町プレイスの再開発事業の一環として日本橋川に架けられた歩行者専用橋です。
竜閑さくら橋からは「大正七年(1918年)」と刻まれた紋章が見えます。この紋章は東北新幹線や京浜東北線が通るJR鉄橋に取り付けられたもので、竜閑さくら橋か、JR鉄橋を通り過ぎた直後に振り返って見ないと見つけることができません。

旧逓信省マークのマンホール。旧逓信省は昭和24年(1949年)に廃止されているのでそれ以前に設置されたものです。

道路の反対側ですが、龍閑橋の親柱・橋桁が展示されています。

竜閑橋はかつてこのあたりに流れていた竜閑川に架かる橋でしたが、竜閑川の埋め立てによりその役目を終え、大正15年(1926年)に架け替えられた橋の一部が保存されています。
神田橋
鎌倉橋を渡ります。


鎌倉橋の欄干には昭和19年(1944年)11月の米軍による爆撃と機銃掃射のときに受けた銃弾の跡が大小30個ほど残っています。80年以上経っても残っているとは、恐ろしいことです。
日本橋川はかつて外堀川と呼ばれ江戸城外郭に位置しており、現在も旧外堀石垣の一部が残されています。また、鎌倉橋のたもとには荷揚げ場として使われた痕跡が残っています。

NTTドコモビジネス大手町ビル本館の通信塔。クルーズ船からも結構目立つようです。

鎌倉橋から神田橋の間に大手町フィナンシャルシティがありますが、ここは昔、庄内藩(現在の山形県鶴岡市)酒井家の神田橋上屋敷の跡となっています。

神田橋は江戸時代に将軍が上野の寛永寺へ参拝するときに利用していた見附橋です。明治17年(1884年)に木橋に改架されるも大正12年(1923年)の関東大震災で焼失、震災復興事業で石およびコンクリート製の橋になりました。

江戸時代、神田橋のたもとのここには荷揚げ場がありました。徳川家康は江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲むお堀(現在の日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されていました。現在も「物揚場」と刻まれた境界石が残ります。

神田橋公園で休憩中、ふと上を見上げると桜が咲いていました。

神田橋のたもとには、田沼意次屋敷跡もあります。「田沼意次により自由な気風のなか歌舞伎や浮世絵等の江戸文化が花開き、現代の出版やポップカルチャーの礎を作った大河ドラマ「べらぼう~蔦屋栄華乃夢噺~」の主人公、蔦屋重三郎は頭角を現すことができた。」この説明板は最近設置されたのがわかります。

一ツ橋
こちら、大手町合同庁舎第3号館は令和3年(2021年)4月から11月まで臨時の新型コロナウイルスワクチン接種会場として使われていました。

ここは元気象庁ビルで、令和2年(2020年)に気象庁は港区虎ノ門の港区立教育センターとの合同庁舎に移転しました。

ここは気象庁があったこともあり、気象庁旧生物季節観測の木々が植えられていました。ここに植えてあるソメイヨシノは東京の生物季節観測に用いられたそうです。

錦橋を渡ります。

錦橋の橋名は錦町や錦町河岸(旧地名)から付けられました。「錦」は昔、近くに一色という武家屋敷が2軒あったので、二色から錦へと転化したのだといわれています。
一ツ橋のほど近く、河津桜が綺麗に咲いていました。

一ツ橋を渡ります。

一ツ橋は江戸時代の一ツ橋門跡の近くで、徳川家康の入国頃は大きな丸太が一本架けられていたことが一ツ橋の名の起こりと伝えられています。
関東大震災後に架けられた橋なので「復興局建設」という字が見えます。橋の上からだと覗き込まないと見えませんが(スマホを落とさないよう注意)、クルーズ船でくぐるときだとよく見えます。

一ツ橋のそばには一橋徳川家の屋敷跡があります。

一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川8代将軍・徳川吉宗の第4子・宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりです。
一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の様式をもち直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇されました。
一橋家は、2世・治済の長男・徳川家斉が11代将軍となり、水戸家より入った一橋9世が徳川最後の15代将軍・徳川慶喜だったこともあり、御三卿のなかでも幕政に深く関わりました。
こちらは毎日新聞社の社屋です。毎日新聞社は昭和18年(1943年)に「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」が題号を統一して誕生しました。

雉子橋
雉子橋があります。

徳川家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉(きじ)をこの附近の鳥小屋で飼育したことが雉子橋の由来です。
寛永6年(1629年)に江戸城外郭門のひとつである雉子橋門が築造され、橋が架けられました。橋は明治36年(1903年)に鉄橋に改架されたものの大正12年(1923年)の関東大震災で被災、大正15年(1926年)に現在の橋が架けられました。
雉子橋付近には江戸城の石垣が残されており、クルーズ船からはよく見ることができます。

千代田区章のマンホール。千代田区章は円のなかに「千代田」の「千」を鶴の飛ぶ姿に型どり、更にこれを平仮名の「よ」に似せ全体を「田」と読んで千代田を表徴しています。

宝田橋に到着しました。以前は「宝田」という地名があったようですが、この橋名以外は残っていません。

俎橋(まないたばし)に到着しました。

俎橋の名の由来ははっきりしませんが、江戸時代に御台所町が近くにあったことが関係するといわれています。それにしても「俎橋」…初見で読めない名前です。
寿人遊星。この彫刻は昭和61年(1986年)ハレー彗星の地球接近を記念し人々の清福を望み、星とゆかりの深い「寿老人」を模して製作されたものです。

滝沢馬琴の井戸跡。

滝沢馬琴は江戸時代後期に活躍した戯作者で、「南総里見八犬伝」の作者として知られています。馬琴は寛政5年(1793年)、この場所で履物商を営んでいた会田家に婿入りし、執筆活動に励みました。その後文政7年(1824年)に神田に住んでいた息子・宗伯の家に移るまでここに住んでいたようです。
この井戸は馬琴が硯に水を注いで筆を洗っていたことから「硯の井戸」と呼ばれていましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で井戸は失われたようです。
南堀留橋を渡ります。

昔この付近の日本橋川を堀留川と称していました。江戸時代の万治年間(1658~1661年)に現在の三崎橋から俎橋あたりまでが埋め立てられましたが、寛文4年(1664年)に俎橋から堀留橋の付近まで再び掘削されたことから「堀留」の名前がつき、堀留橋より南側にあることから「南堀留橋」となったようです。
南堀留橋の北にある橋は、堀留橋です。

飯田町駅と再開発
新川橋を渡ります。

現在の新川橋は昭和2年(1927年)に架けられた、長さ7.0m、幅11.5mの鋼橋となっています。
新川橋のほど近くに讃岐高松藩上屋敷の庭園跡があります。ここには池の跡があり、池には神田上水を引き込み岸には石垣や竹の土留めなどを用い、池の南端には景石を置いていたと考えられています。

東京スカイツリーを設計した日建設計の本社があります。日建設計は昭和25年(1950年)に設立した建築設計事務所です。

あいあい橋。

あいあい橋は飯田町貨物駅跡地の再開発に伴い、平成14年(2002年)に架橋されたばかりの新しい橋です。
講師の1人が「ひらがなでは「あいあいはし」なのにローマ字では「あいあいばし」なのは…どっちが正しいんですかね…?」と呟いていました。確かにどっちが正しいのかわかりません。
ホテルメトロポリタンエドモント等がある一角に来ました。ここにはかつて飯田町駅がありました。


飯田町駅は明治28年(1895年)4月3日、甲武鉄道の起点駅として開業しました。甲武鉄道は現在の中央本線の前身にあたる存在です。昭和8年(1933年)に飯田町駅は旅客営業を廃止、旅客用のホームは取り壊されました。

明治42年(1909年)測図の旧版地形図で、赤丸に「いひだまち」と記載されていることがわかります。※「今昔マップ」より作成

昭和53年(1978年)発行の旧版地形図。赤丸に「飯田町駅」と記載されているのがわかります。※「今昔マップ」より作成
その後も貨物駅として存続していましたが、平成11年(1999年)に貨物駅としても廃駅となったため駅舎は取り壊され、その後の再開発でホテルメトロポリタンエドモントなどの建物が建ちました。

赤丸のあたりがホテルメトロポリタンエドモント等のある一帯です。※地理院地図に追記
水道橋
新三崎橋を渡ります。

三崎橋の近くに後からできたのでこの橋名が付けられました。大正15年(1926年)11月24日に架けられたコンクリート橋となっています。
三崎橋を渡ります。

三崎橋は神田川と日本橋川の分流点にある、日本橋川に架かる橋です。現在の橋は昭和29年(1954年)に改架されました。
三崎橋のたもとに小石川門跡がありました。
小石川門は、寛永13年(1636年)、岡山藩主・池田光政によって築造されました。明治維新後、枡形石垣は明治5年(1872年)に取り壊され、その石材を利用して明治10年(1877年)に日本橋川下流の常盤橋の石橋が建造されたため、常盤橋の石として小石川門の石は現存しています。
東京ドームにたくさんの人が吸い寄せられていきます。この日はVaundyのライブがあるようです。

市兵衛河岸(いちべえがし)。市兵衛河岸は飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸切絵図にもこの地名はあるようですが、昭和39年(1964年)に住所上では消滅しました。
このあたりは深い濠なのでクルーズ船からは東京ドームシティが見えませんが、このあたりで一瞬ですが見ることができます。

ところでカレーうどん屋とCoCo壱番屋(カレー屋)が隣り合っているのはなぜなんでしょうか?カレーで有名な神保町が近いからでしょうか?

水道橋に到着しました。やはりここでもVaundyのライブに行く人であふれています。

水道橋の名の起こりは、この橋から約150mほど下流に神田上水の懸樋があったことによります。昭和3年(1928年)に鋼橋が架けられましたが、昭和63年(1988年)にそれよりやや大きめの橋に架け替えられて現在に至ります。
おあつらえたかのように、水道橋の交差点にVaundyのライブの宣伝トラックが停まっていました。

聖橋
神田上水懸樋跡がありました。

江戸時代、神田川に木製の樋を架けて神田上水の水を通し、神田や日本橋方面に給水していました。神田上水の懸樋は明治34年(1901年)まで江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として大きな役割を果たしました。
「第102回箱根駅伝 総合3位」という垂れ幕が順天堂大学にありました。今年、令和8年(2026年)正月に行われた箱根駅伝で、順天堂大学の総合3位という成績は予選会上がりからの快挙ではありますが、駒澤大学(今回は6位)出身の筆者としては抜かされちまったなぁ、という感じはあります。

ほどなくして、お茶の水橋に到着します。


お茶の水の地名は、江戸時代に将軍家の茶の湯に用いる清水がこの渓谷近くから湧き出ていたことによります。橋の名前もその地名にちなんでつけられました。
だいぶ前に廃線になりましたが、お茶の水橋には路面電車が走っていました。令和2年(2020年)にお茶の水橋の補修工事をしていたらそのときの路面電車の線路が発掘され、話題になりました。近所の職場で働いている私はその情報を聞き、一眼レフを抱えて昼休みに撮影しに行ったことを覚えています。

聖橋(ひじりばし)は渡るだけだとただの橋ですが、横から見るとフォルムが大変に美しい橋です。

ニコライ堂がある千代田区神田駿河台四丁目と、湯島聖堂がある文京区湯島一丁目を結び、「ニコライ堂」「湯島聖堂」の2つの聖堂を結ぶことから「聖橋」の名前がつけられました。
また、聖橋のあたりでは地下鉄である東京メトロ丸ノ内線が一瞬だけ地上に顔を出します。隣に中央線の御茶ノ水駅があるのも手伝い、運がよいと中央線と丸ノ内線がそれぞれ走っているところを写真に収めることができます。現地踏査中にもそのタイミングは訪れ、中央線停車中に丸ノ内線が現れると講師も講習生も一斉に写真を撮り始めました。ちなみにクルーズでも運が良いと丸ノ内線を船上から見ることができます。

万世橋
聖橋を通り過ぎると、湯島聖堂が見えます(船上からは見えません)。

湯島聖堂は、江戸幕府の侍講・林羅山が上野忍岡に開いた私塾に付属してたてた先聖殿(孔子廟)をはじめとします。
昌平橋を渡ります。

昌平橋の名の起こりは、元禄4年(1691年)、徳川綱吉が湯島に聖堂を造営し、孔子の故郷である中国の魯の国・昌平郷にちなみ「昌平橋」と名乗るように命じたことによるといわれています。
昌平橋から神田川とガード下のお店群を見ていると、丸ノ内線が通り過ぎていきました。

昌平橋架道橋の下に、「人孔」と書かれたマンホールを見つけました。右から左に書かれているので、戦前に設置されたものでしょうか。

筋違門跡。筋違門の名は日本橋から出発して本郷・板橋に向かう中山道と、上野・寛永寺や日光東照宮に向かう御成道が筋違に交差していたことからつけられました。

旧万世橋駅に入ります。

かつて、中央線の神田駅~御茶ノ水駅の間に、明治45年(1912年)に開業した「万世橋駅」がありました。昭和18年(1943年)に休止、事実上の廃止となりますが、赤レンガの万世橋高架橋のなかにホームや階段など、駅の施設が一部残っていました。

大正6年(1917年)測図の旧版地形図。赤丸に「まんせいはし」と記載されているのがわかります。※「今昔マップ」より作成
平成25年(2013年)に駅の遺構を再生し、歴史的価値ある遺構を随所に見られる施設として、「旧万世橋駅」が開業しました。
階段を上っていくと「旧万世橋駅 2013プラットホーム」があります。これは旧万世橋駅のホームをデッキ・カフェとしてよみがえらせたものです。元ホームということもあり、かなり近距離で電車が走りすぎていきます。

前半コースは後半コースより少し早く万世橋に到着したこともあり、ここでしばし待ちます。
後半コースの到着を待って、万世橋に行きます。

万世橋は明治36年(1903年)にほぼ現在の位置に架けられましたが、関東大震災で被害を受け、昭和5年(1930年)に長さ26m、幅36mのRC造アーチ橋が完成しました。
また、東京・塩竃間で行われた水準測量で、万世橋に几号水準点が設置されたという記録が地理局雑報 第拾四號に残っており、「萬世橋石欄干(南ノ方) 四、八七〇四メートル」と記録されていますが、現在几号水準点は確認されていません。もっとも、この情報が記載された地理局雑報の発行が明治12年(1879年)、現在の橋ができたのが昭和5年(1930年)なので橋を造るタイミングで消滅してしまった可能性が高いです。
ここで前半コースと後半コースが合流し、締めの挨拶をして解散、懇親会に行く人は懇親会に行く、という流れになりました。
次回講座および、「春光をまとい航走する水都2つのクルーズ」の開催は3月14日となります。午前中はガイド講習生およびスタッフのみが乗船する体験乗船を行い、午後の2便、13時発の「日本橋川・神田川・隅田川ぐるっと舟遊クルーズ」と15時発の「Wツリーを巡る ~桜はまだかいな~ クルーズ」の2便は現在申し込み受付中です。

第1便は日本橋船着場を出て、日本橋川を三崎橋まで北上、神田川に入り柳橋から隅田川に合流、日本橋船着場に戻ってくるトライアングルコースで、12時半受付開始、13時出航、14時半終了予定となっており、乗船料は2,500円となります。このコースの前半の現地踏査の内容が当ブログとなっております。
第2便は日本橋船着場を出て、亀島川を通ってから隅田川に出て、浜離宮に入ってから来た道を引き返し、永代橋をくぐりつつ北上、東京スカイツリーの近所の仁天門船着場先でUターンして浅草橋三浦屋に到着いたします(日本橋船着場には戻りません)。14時半受付開始、15時出航、16:40終了予定となっており、乗船料は3,000円となります。
ご興味のある方は以下のピーティックスから申し込みを受付しておりますので、ぜひ申し込んでご乗船いただけると幸いです。
https://peatix.com/group/16440980
「3月14日は予定があって行けないけど、水都のクルーズに興味がある」というあなたへ、4月18日も「陽春の水面を航走する3つのクルーズ」の開催が決定しております。

第1便は日本橋船着場を出て、亀島川と隅田川、浜離宮にも入りつつお台場へ出て、豊洲市場の横を通って晴海運河を通り、隅田川に戻って日本橋船着場に戻ってくるお台場ルートです。9時半受付開始、10時出航、11:40終了予定、乗船料は3,000円となっております。
第2便は日本橋船着場を出て、隅田川経由で小名木川に入り扇橋閘門を利用、旧中川を通って荒川ロックゲートを利用、荒川を通って新砂水門を通過、砂町運河と豊洲運河を通って日本橋船着場に戻ってくるWロックゲートルートです。閘門で水位が上がったり下がったりするのを見ることができるのはこのクルーズだけです。12時半受付開始、13時出航、15時終了予定、乗船料は3,000円となっております。
第3便は日本橋船着場を出て、亀島川通過後に隅田川を北上、隅田川の橋を見ながら東京スカイツリーの近所の仁天門船着場の先でUターンして神田川に入り、浅草橋の三浦屋で終了の、隅田川・スカイツリールートです(日本橋船着場には戻りません)。15時受付開始、15時半出航、16:45終了予定、乗船料は2,500円です(ほかのクルーズと比べて時間が短いため、少しリーズナブルな価格となっております)。
こちらに関しては近日中にピーティックスで募集開始予定のため、水都東京を創る会の公式HPを定期的にチェックしていただけると幸いです。
長文になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。今後とも水都東京を創る会をよろしくお願いいたします。

【参考文献・参考サイト】
内務省地理局(1879)「地理局雑報 第拾四號」(閲覧は国立公文書館デジタルアーカイブを利用)
東京都歴史教育研究会(2005)「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社
地理屋交流会&みんなで地理プラーザ!(2023)「地理交流広場 第6号 几号点を訪ねてー中央区から足立区にかけてー 10月うさぎ」
中央区観光協会特派員ブログ 映画「祈りの幕が下りる時」キーとなる12の橋、ご紹介します⑥ー6月 西河岸橋ー
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=5061
千代田区景観まちづくり重要物件 旧常盤橋
https://www.city.chiyoda.lg.jp/documents/4200/55-kyutokiwabashi-r405.pdf
大手町プレイス 歩行者専用橋「竜閑さくら橋」開通! 大手町と神田のアクセスがより便利に。
https://otemachiplace.jp/otemachinow/%E5%A4%A7%E6%89%8B%E7%94%BA/2618
EDO→TOKYO 江戸時代の掘にかかる橋ー竜閑橋
https://edokara.tokyo/conts/2017/09/30/730
千代田区観光協会 錦橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/214
千代田区観光協会 一ツ橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/215
千代田区 区の紋章
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/gaiyo/yokoso/monsho.html
千代田区観光協会 俎橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/218
千代田区観光協会 堀留橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/220
千代田区観光協会 新川橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/221
千代田区観光協会 あいあい橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/210
東京とりっぷ 【東京の廃駅】飯田町駅(明治28年~平成11年)
https://tokyo-trip.org/newstopics/abandonedstation-iidamachi/
千代田区観光協会 新三崎橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/222
千代田区観光協会 三崎橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/223
千代田区観光協会 水道橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/206
千代田区観光協会 お茶の水橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/205
千代田区観光協会 聖橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/468
千代田区観光協会 昌平橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/204
旧万世橋駅
https://www.ejrcf.or.jp/mansei
千代田区観光協会 万世橋
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/690
(2026年3月1日最終閲覧)

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